愛を学ぶ言葉 〜あるがままの私にイエスと〜

(質問)
親愛なるOsho、
あなたは本当に、あるがままの私に全面的にイエスと言って下さるのですか?

そうだ、私はあるがままのあなたに、全面的にイエスと言う。なぜならそれが、私があなたを変容できる唯一の方法だからだ。 私の受容は、あなたが今あるがままでずっと止まっているべきだということを意味しているわけではない。私の受容は、あなたがどんな風であれ、私はあなたを尊重し、あなたを愛しているということだ。しかし、同時に、私の受容は、あなたは今ある以上のものであることができる、これがあなたの旅の終わりではない、ということを意味している。実際、あなたはまだそれを始めてすらいない。しかし、私はあなたの潜在力を見ることができる。

何世紀もの間、これが、探求のために、あなたが挑戦してきたあり方だった。あなたがどんな風であれ、あなたは常に間違っていると非難されてきた。強調点は、もしあなたが間違っていれば、あなたは罪人であり、そうしてはじめて、あなたは変化しはじめる、ということだった。 しかし、このテクニック全体が失敗してきた。人々は自分が間違っていることを、自分たちは罪人であり、聖者になるなど、自分たちには手の届かないことだと、受け入れてしまった。だから、くつろいで、罪人であることだ、と―もちろん、それは喜びに満ちたあり方ではなく、悲しみに満ちたあり方だが。 この生全体が、彼ら自身の目にとって、価値のないものになってしまった。罪悪感、罪の意識、悲しみ― 長い、暗い物語だ。無用で、無益な生の。

過去全体を通して、こうしたやり方であなた方を変えることができるだろうという希望とともに、あなた方は非難されてきた。しかし、彼らの希望は間違っていると、証明された。

   私は、まったく違う方法を試してみようとしている。

私はあるがままのあなたを受け入れる。しかし、それは、あなたが今あるままにとどまっていてほしいという意味ではない。私は、あるがままのあなたを愛している。しかし、ほんのちょっとの努力で、自分自身の光になることができるほど、内側にそれほどの潜在力を、成長への偉大なる可能性を秘めているから、私はあなたを愛するのだ。

あなたがどんな風であれ、それを楽しみなさい。しかし、はるかにそれ以上のものがある。だから、そこで止まってしまわないでいなさい。あなたは、梯子の最初の段にいるのだ。それは完全にグッドだ。なぜなら、一段目を踏むことなしに、どうやって二番目に、そして最後の段、究極へと至るつもりだね?

罪人は、だれもいない。
そうだ、間違いを犯す人々はいる。だが、誰一人として、罪人はいない。そして、誰もが、間違いを犯す権利を持っている。なぜなら、それだけが、学ぶことのできる唯一の方法だからだ。そして、誰もが暗闇の中で手探りしている。それはあなたに限ったことではない。誰もが、時に落ち込むし、それはよい訓練になる。

私から見れば、存在があなたに差し出すものは、あなたにとって良いものだ。ただそれを使いなさい、そしてあなたの目を、はるかな星々に向けていなさい。彼らは、あなたの一部だ。それらがどれほど遠くにあろうと、それは、あなたの手が届かないところにはない。


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